2016.01.22「まちづくり デッドライン」:木下 斉 (著), 広瀬 郁 (著), 日経BP社
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なぜ若者は学校で勉強しなければならないのか?
その答えは「自分の生活エリア防衛のため」といってもあながち間違えではない時代がきてしまったのかもしれない。
■ 「まちづくり デッドライン」:木下 斉さん (著), 広瀬 郁さん (著), 日経BP社
○ 自分の生活エリアの生活環境や利便性など、現況レベルをいつまで維持できるのか、かなり怪しいと感じているみなさんも多いのではないでしょうか。例えば、近隣の廃墟により周辺環境が悪化した、商業施設の撤退などにより日常生活が不便になった、などの経験をされた方もいらっしゃるかもしれません。利便性のよい都会での生活が日常になってしまいピンとこない方々も、実家の生活エリアで想像すると切実な問題として考えられる方もいらっしゃることでしょう。
私が学生だった30年ほど前、科学技術は万能であり、未来永劫生活レベルは上がり続けると思っていました。日常生活の利便性が下がるなどあり得ない、明日は今日より必ずよくなる、しかも日本全土隅々まで。それが疑うことのない大前提、経済大国日本の豊かさは永遠である、と・・・
しかし、90年代中頃から社会の諸問題に対する昭和まで機能してきたさまざまな対処療法が効果を発揮しなくなり何をしても右肩が上がらなくなりました。日本は、そして世界は大きく変わってしまったようです。
買い物・医療・介護難民問題など、生活レベルの低下事例が各地で顕在化してきています。このような事例報告を見ていると、自分の生活エリアの環境、利便性等、現況レベルを維持していくのは難しいことかもしれない、。日本全体の均質なレベル維持など絶対無理。都市計画的選択と集中をせざるを得ない。どこかの誰かが言っていたように、もしかしたら自分の生活エリアが消滅してしまうのではないか、というような、将来に対する不安が漂う社会になってしまいました。
このような現況下において、自分、家族、友達、近隣住民の直接的利益と直結する「自分の生活エリア防衛が学校の勉強の目的である」と定めれば、明確!
○ 例えば郊外の巨大商業施設で楽しく遊んでいることは自分の生活圏の破壊に手を貸している行為かもしれない(逆かもしれない)。ネットばかりで買い物し、現実のお店で買い物しないのは、自分の生活圏の破壊に手を貸しているかもしれない(逆かもしれない)。もしかすると、自分の住んでいる行政区の雇用をうまない、税金を納めない企業のモノやサービスを買うのは馬鹿げている(逆かもしれない)。(これらのことは私はどちらか正しいのかよくわかっていない。)などのようなことを認識して生活行動を起こすことが常識な時代が来るかもしれない。
「自分の生活エリアを守るためにはどうしたらよいのか。」「自分の生活エリアを守るために一生懸命勉強して働いて役に立ちたい。」もし多くの若者たちがそう考えるようになれば、学校教育の目的、カリキュラムを変えないといけないだろう。
○ 今、若者たちは、たいした意味がないと感じてしまう社会のなかで、何のために勉強するのか考える気も起こらないまま、流れる時間に身をまかせ、時に実空間を、時にサイバースペースを、電気クラゲのように漂っている感じを受けます。(かといって、私が学生だった頃も周りを見渡せば同じような感じだったように思います。いつの時代も”意味”を見つけるのは、校庭に落とした一円玉を見つけるのと同じくらい難しい。)
*<電気クラゲのジレンマ:好意的に近づくものたちに対しても反射的に電気ショックを与えてしまい仲間ができない。他者を避け孤独に漂うか、他者を攻撃してしまいながら孤独に漂うのみ。> 無限のグランドライン=無法地帯の電脳空間につながった携帯端末が心の一部となった今、実体世界での人付き合いの意味も変わってしまったようだ。同じ空間を共有しているとしても、仲間を装い無理して会話をする必要もない。”やっぱり合わない”、ということの再確認作業になってしまうだけで意味がない。(だとしても、ことばをかわしたほうがよいと思う。)そのような現実的距離感覚が非常に興味深い。
○ 大きく変わってしまった世の中で、昭和時代のような電脳空間がなかった時代の”実体世界”で、不特定多数の”みんなのため”、物質中心の”発展、開発、進歩”などの大げさな目標は、飽和状態で多様な価値が散在してしまい全体レベル維持が困難な後退局面に差し掛かった今の時代、リアル感、説得力は持ち得なくなりました(前からなかったか?)。
もしかすると、学校で勉強することが、自分の生活エリア防衛に直結して役に立つということが実感できれば、生きているリアル感=意味を得ることができるかもしれません。
漠然とした目的では範囲が大きすぎて焦点が定まらず社会という海中を漂うだけで時間が過ぎていってしまってしまう人も多い。自分の生活エリアという目の前の実感できる問題の解決のためなら目的は設定しやすい。実際の行動に移せば結果も判明する。ひいては地方自治へもつながっていくであろう。合わないことの確認でしかなかった会話の尊い意味を見出だすことができるかもしれない。
そして、もしかすると、その先に”来るべき日本社会”が実現できるのではないかと、昭和時代とは大きく異なるニュータイプのみなさんの繊細なる感性による成熟文化に淡い期待をよせています。