2016.03.08「ソーシャルデザイン実績ガイド」:筧裕介さん著:英治出版
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「ソーシャルデザイン実績ガイド」:筧裕介さん著
もし、若者が学校で勉強する理由が「自分の生活エリア防衛のため」ならば、「生活エリアに関わるさまざまな領域と要素を横断した知識や思考力」が必要になるだろう。
(ご興味のある方は前回のコラム >>「まちづくり デッドライン」:木下 斉 (著), 広瀬 郁 (著)参照)● 領域横断力 > 専門性
P.338にこう書いてありました。
「自分に専門性のないことが長年の僕のコンプレックスでした。 ー(中略)ー 専門性がないこと、逆に言うとさまざまな領域と要素を横断して考えられるほうが役に立つことが多いと最近は開き直ってきました。」と。「専門性をひたすら極めること」のみが特別な価値を持った時代から、専門性がなくても、「複数の領域と要素を横断して考えること」ができる能力も特別な価値を持つ時代になりました。生活は縦割り分野内ごとに行われているわけではありません。時代の合理的必要性や管理者側の都合で割っていっただけです。
<縦割りシステムの脆弱性>
主に近代化・都市化に必要なハードをあつかっていた昭和の時代(α世界線上)ではよく機能した縦割りシステムは、成熟社会、”ソーシャルな時代”(β世界線に文化移行中)を向かえた今世紀、人々の生活を中心にしたコミュニティ、そして社会を主として相手にするならば、今のままではバグが多いシステムになってしまったようです。< 領域横断力 > 専門性 >
主流は人のつながりをあつかう社会問題に移り変わってきています。こういった時代では、生活エリアに関わるいくつもの領域、これらの領域を俯瞰した視点で全体を把握し、縦割りの専門性の高い能力者を適所に配置、横に繋ぎ全体的に機能させること、つまり、「複数の領域と要素を横断して考えること」ができる能力者が、適切に全体をプロデュースもしくはコーディネートすることにより、はじめて縦割りで培われた専門的能力を機能的に有効活用することができるという領域横断的対応能力が必要とされてきます。<他の領域との関係性のなかの専門性>
(学校に入って考え違いしてしまったのは、専門性の追求のみが唯一の目標であり、自分の専門外のことは自分には関係ないと、知らず知らずのうちに決めつけてしまっていたことだ。時代の大きな変化を体験し、専門性のみの追求は、視野を、考え方を、アイデアを、狭めてしまう危険性も持ち合わせていることを思い知らされた。これからの”ソーシャルな時代”という文化移行への対応のみならず、やり尽くされたモダンデザインの先のデザインを考えていくうえでも、今までのような専門性のみの追求ではなく、幅広い視野を常に意識し、全体の中の一つの専門性であることを認識、他の分野の連携にも積極的に関わっていくような姿勢が求められる。)●ハードデザインの目的達成→社会的意義、文化的意味の強度低下、行き詰まり
90年代中頃、近代建築の技術的目標がほぼ達成され、多くの分野の昭和的な価値が崩れ出してきた頃、建築計画・デザインで生活を変革し、豊かな文化を手に入れるといった建築の社会的役割や、建築デザイン・技術の可能性を追求、実現し、日本の文化水準・技術力の高さをしめすことにより、人々に夢や希望を与えるといった、ハードデザイン(=建築)の大きな意味が薄れて(必要性がなくなって)きました。(国立競技場コンペ+エンブレム騒動でそれが決定的となった。国立競技場もエンブレムも前回の既存のもので多くの人々は満足だった。もう大上段に構えた新しいもので夢や希望を与えたり、自尊心を満たしたりはできないのだ。それより、五輪に訪れた方々をいかにおもてなしできるのかに大きな価値、夢や希望、時には生きがい、を見いだしているようだ。心のこもったおもてなしで喜ぶ姿を見ることの代替としての自尊心。)
<消えていった専門誌>
モダニズム精神が活きていたがゆえに、活発に議論されていたポストモダン論も、本当のポストモダン(アフターモダン)社会を向かえ、「夢と希望」の時代”昭和”が終わるとともに消滅してしまいました。(アフターモダン=成熟社会とは恐ろしい、あれほど活発に議論していたポストモダン論が、なにもなかったかのように、価値がなくなり誌面から消え去り、誰も口にしなくなるのだ。そして、役割りを終えたことを悟った建築専門誌が、次々と廃刊していった。)<モダンデザイン大衆化達成後のセンス>
(建築デザイン論も、論議自体の意義が薄れていく。残ったのは「個人的センス」。こじんまりとした、小さな関係の操作に意味を見いだし、一分の一模型のようなオブジェでセンスを競い会う様相を呈している。多くの企業がそこに商品価値を見い出し、多くの商品住宅を売り出し始め、今や日本の商品住宅の標準仕様となりつつある。近代が目標とした一つ、モダンデザインの大衆化は達成され、今や誰もがモダニズム建築をつくることができる。)●時代は成熟し、”ソーシャルな時代”へ
ハードデザインの行き詰まりが見えはじめた21世紀初頭、成熟社会の到来とともに、コミュニティデザイン、ソーシャルデザインなどのソフトデザインが表舞台に登場してきました。もちろん、それまでもソフトデザインは行われていたわけですが、クリエイティブなデザイン行為とは認知されていませんでした。しかし、20世紀的な価値観ではない、成熟社会を象徴する新しい価値を認識できる新しい若者たち<β線上のニュータイプ>の登場により、リノベーションと同様、ソーシャルデザイン、コミュニティデザインという新しい価値に、新しいクリエイティブ性を見いだす流れが定着してきています。<β線上のクリエイティブ性>
● 「クリエイティブ」、「デザイン」時代
<人のサポート・誘導システム=これからのクリエイティブデザイン>
「クリエイティブ」「デザイン」という言葉が若者文化のなかでは分野を問わず大きな価値をもってきました。様々な分野でこれらの言葉が出てきます。”成熟”を象徴する言葉です。携帯端末からいつでも誰もがアクセスできる無限の電脳空間が自分の想像力と連動、同期し、誰もが他者とつながり発信者となれること、様々な想像力の具現化をサポートするアプリケーションソフトが高度に発達したこと、自分でつくる文化(DIY)が広がっていることなどにより、誰もがクリエイティブにデザインし、全世界に主体的に発表、交流できるようになりました。都市・建築分野では、おもにハード分野で使われてきたこの言葉は、ソフト優位時代へ移行していくとともに、コミュニティデザイン、ソーシャルデザイン等ソフト分野でも利用されるようになってきています。
(α世界線上の建築家がハードアーキテクトならば、β世界線上の建築家はソフトアーキテクトと読んでもよいかもしれない。ハード優位時代が過ぎ去り、アーキテクチャ、アーキテクトという言葉は、建築界以外、果てのない無限の宇宙空間のようなサイバースペースのシステム創造者をさすことも普通になってきている。彼らがつくる世界観に知らず知らず誘導されていっている人びと。作り手の姿が見えないアーキテクト。一方、実社会でのソーシャル・コミュニティデザインでは、もろに人間関係。人格が直接的にあらわれるアーキテクト。)●”ソーシャルな時代”の萌芽は日本型自治社会の実現へとつながるのか?
もしこれが、次世代へ受け継がれていくような文化として定着していくならば、もしかすると、ハード優位時代(昭和)ではつくることのできなかった独自の(時にソーシャルな)経済システムと連動した「日本型自治社会」を、若者たち世代の手により実現できるかもしれません。
●「建築デザインの原点」と「ソーシャルデザイン」
時代の移り変わりにより必要とされるデザインも変わってきました。時代転換期の今、有るものを活かす縮小、減築時代、社会的要請が大きくなっていく”ソーシャルな時代”では、学んでいく内容も変わっていかざるを得ないでしょう。
○ 「建築デザインの原点」
約30年ほど前、建築・デザインとはいったいどういった考えかたで作られているのか勉強してみようと思って購入した本です。今から45年ほど前、1971年に出版されました。こういった本をたくさん読むことで、建築、デザインの基礎の基礎を一つ一つ学んでいきました。
ここには次のように書いてあります。
『建築の創造は、建築家の主観的な観念や感覚に負うことが多い。したがって、その方法の客観的な理論化は、非常にむずかしいといわねばならない。しかし建築の評価が、建築家の個人の主観や好みにたよっているかぎり、建築の質的発展はおぼつかいない。多少のあやまち(ドグマ)があっても、建築デザインの科学化のために方法論を打ちださねばならない。哲学、心理学、生理学、数学、芸術学、美学などの助けを借りて建築美の原理(空間造形の基本)を解明し、具体的なデザイン活動に役立つ方法論を追求しなければならないのである。』「建築デザインの原点」初版から40年後、時代は21世紀、成熟社会、ゼロ成長、減築、減少、維持管理主体の”ソーシャルな時代”。ソーシャルデザインとは、いったいどういったもので、実際どうやっていけばよいのでしょうか。
○ 「ソーシャルデザイン実績ガイド」
『デザインとは、人間誰もが持つ「創造性」から生まれるものであり、デザイナーと呼ばれる一部の人にしかできないものではありません。』と書いてあります。”ソーシャルな時代”に移行した結果、すでに専門家による特別な専門的特殊能力のみが特別な価値を持つわけではなく、人ならば誰もが持つ創造性を発揮すれば誰もがデザイナーになることができ、みんなで力を合わせることで特別な価値をつくれるような時代になったのです。『本書では、言葉の定義にあまりとらわれることなく、社会に対して問題意識をもって活動している、活動したいと思っているさまざまな人に実践的な方法論とツールを提供することを目的としています。』と書いてあります。「建築デザインの原点」同様、方法論の確立が客観的理論化と具体的に役立つ方法論を提供してくださっています。
“ソーシャルな時代”、”ソフトデザイン優位時代”の、なだらかな丘陵地に無数に混在する価値多様化時代のクリエイティブ性とはなにか?この本を読んで勉強しよう。
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○ 「ソーシャルデザイン実績ガイド」
「ソーシャルデザインとは「森の中に道をつくる」活動」パート1では行程が示されています。
1:森を知る
2:声を聞く
3:地図を描く
4:立地を選ぶ
5:仲間をつくる
6:道を構想する
7:道をつくる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この本を読むと「専門性をひたすら極めること」のみが特別な価値を持った時代から、専門性がなくても、「複数の領域と要素を横断して考えること」ができる能力も特別な価値を持つ時代になったことがわかります。
● “ソーシャルな時代”(β世界線上)の目標、目的、生きがい…
成長時代には疑いなかった国土の果てしなき開発、日常生活空間利便性の終わりなき向上。しかしそれは過去の古きよき時代となりました。エリアを住民が自分たちが自ら管理・運営していかなければ衰退していってしまうことも現実的な懸念事項となってきています。
成熟してしまった社会、これから数十年、生きる目的を、自分の生活エリアの防衛としてもあながち間違いではない時代がきてしまったようです。自分の生活エリアのため、みんなで学び、デザインし、活動してゆく、そこに焦点をしぼってあらゆる分野の、全国一律のルールではない地方の実情、目標にあわせた独自のシステムチェンジをしてゆく必要性を感じています。
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*世界線文化区分法(α、β、Γ世界線文化論)
時代の潮流とは誰も抗うことのできない大河の濁流のようなものです。時代にはこの濁流から産み出された、ものごとの考え方の核となるようなものがあり、その核から導きだされる世界観みたいなものに社会は支配されています。この時代を支配するものごとの考え方の核となる世界観が時間軸上で貫かれた一連の線形状の期間を、「世界線」と呼ぶとわかりやすいのではないかと考えました。時に、その世界観が大きく変化し、世界線が切り替わるときあります。今、日本ではその切り替え時期、文化移行期を迎えています。
近代化を目的にひたすら前へ、上を向いて邁進してきた時代をα世界線(アルファせかいせん)とするならば、都市、建築の分野では、戦後復興、急速な都市化による住宅不足が問題だった昭和50年頃まではα世界線上の「量」の時代、そして、昭和50年頃からはひたすら欧米先進国に追いつくことを目指した(α世界線上の)「質」の時代でした。「質」を追求していった結果、90年代に近代が目指した建築の技術的目標はほぼ達成され、気付いてみれば、不足していた住居は余り、床面積だけをみれば居住空間充足状態になっていました。みんなが夢みた未來の快適生活を支える各分野の技術製品は、ほぼ出そろい、低価格で購入できるため国内消費は増えず、設備投資も進みません。グローバル化による延命措置も行われていますが、資本主義システム自体をあやぶむ声もきかれます。社会は成熟し、(建築その他の)ハード優位時代が終わりを告げました。
今世紀に入り、時代は反転、人口減少、高齢化、経済成長ゼロの、(建築分野では)建てるよりどう使い、どう減築していくのかという、ソフトデザイン優位時代に移行してきています。時代の大転換により変わった世界線。これをβ世界線(ベータせかいせん)と名付け、前時代と区分しました。
(国立競技場や五輪エンブレム問題は、文化移行による根本的なものごとの考え方(=世界観)の大きな変化を突き付けられるできごとでした。)*イマジネーション参考文献:「シュタインズ・ゲート」
● 前回のコラム
>>「まちづくり デッドライン」:木下 斉 (著), 広瀬 郁 (著)
なぜ若者は学校で勉強しなければならないのか?
その答えは「自分の生活エリア防衛のため」といってもあながち間違えではない時代がきてしまったのかもしれない。