「リ・イマジネーションの世界」  仮面ライダーディケイドxストック時代のリノベーション

9月 16th, 2012

「リ・イマジネーションの世界」
仮面ライダーディケイドxストック時代のリノベーション

『おのれディケイド、ストック時代のリノベーションの世界を的確かつ創造的に表現するとは!
いま、日本は「リ・イマジネーションの世界」に突入していたのだ・・・』

■ 記憶喪失

わたしは、主人公・門矢士の記憶喪失に、「血縁」で縛られた故郷を捨て「自由」を求め都会に出てきた若者たちの姿をみた。

・記憶喪失門矢士の2つの旅の目的
主人公・門矢士は記憶を失い、ディケイドライバーを渡され、九つの世界を旅することを決める。目的は世界を救うため、しかし預言者・鳴滝には「世界の破壊者」と罵られ続け、忌み嫌われる存在として描かれる。それぞれの世界で暴れまわる「よそ者」ディケイドは、自分の名を聞かれるとこう叫ぶ「通りすがりの仮面ライダー」
自分の居るべき世界なのかを確認するために、常に首からぶら下げた写真機で写真を撮るのだが、まともに写らない。その写真を見て、自分の世界=居場所ではないことを悟る。「この世界も自分の居る世界ではないのか・・・」士は落胆し次の世界へと旅立つ。士のもう一つの目的は、自分の世界=居場所をみつけること。

・ 近代化=都市化+核家族化+持ち家 → 近代大衆居住空間
20世紀/昭和時代、都市は常に住居不足であった。近代化=工業化による人手不足により、全国各地から都市へ人々が大移動。村から出てきた若者たちは、雇い主の家に住みこみや、長屋、風呂トイレ別の木賃アパート3畳などに住んで賃金労働者やサラリーマンとなっていった。高度経済成長とともに、年功序列的に徐々に住まいも広くなり、設備もグレードアップ、居住空間の快適化を果たしてゆく。その後結婚、子供2人の4人家族という核家族を作り、郊外に一戸建て住宅を建てるか、マンションを購入という経済成長期の標準モデルが確立、このレールの上を多くの田舎からでてきた若者たちが早足に歩んできた。このような、大移動、核家族、都心/郊外、一戸建て/集合住宅、などの居住空間の変遷が、近代大衆居住空間の歴史そのものである。

・ 血縁の田舎→自由+希望+自立の都会での居場所
田舎から都市への大移動は、近代化=工業化による人手不足から始まったのだが。人々が集まり出すと、都市特有の魅力に引きつけられて、爆発的に人々が集まりだした。若者たちは、土地に根ざしたがんじがらめの断ち切ることのできない不自由で可能性が封じられた自分の居場所=「血縁」から逃げ出すために、自由や平等、可能性への挑戦、豊さ、楽しさなどを求め、都会へ出ていった。都会へ出てくると、都市特有の匿名性により、まとわりついてきた田舎の「縁」がリセットされたのではないかと思わせてくれる記憶喪失状態の日常を、右肩上がりの希望に満ちた未来だけを向いて邁進することでやり過ごすことができた。

こうして自立した人々は、田舎の縁をリセットし、記憶喪失を装い、住宅不足を解消するために大量に供給された全国同仕様の無味乾燥的な均質空間で生活する都会人となり、近代人を演じて暮らしてきた。はたして、そうした都会人=近代人は、都市の中に、郊外に、自分の居場所を見つけ出すことができたのだろうか?自分の世界=居場所を探す旅を続ける門矢士のように、改めて直視すれば、ぼやけた、二重露出の写真のような日常生活を駆け足で過ごしてきた(=旅してきた)だけではなかったのか?

・近代化=「無縁」の穴を埋めるのは「仲間」
門矢士のように、大きな目的、仕事、超人的な力があれば、血縁や記憶がリセット、喪失しても生きていける。しかし、逆境にたたされ、迷いが出てきたとき、士といえども心の脆弱性を露呈する。旅が進むにつれ、血縁や過去にすがれない記憶喪失の士にとって、一番大切なのは「仲間」であることを知る。

近年「無縁社会」が問題化しているのだが、そもそも、近代化とは「無縁」は良いことであり、目的としてきたといえば言い過ぎかもしれないが、日本が近代人になるには、「家」の事情を優先し、個人の権利、可能性、自立を閉ざしてしまう前近代的な「縁」は断ち切らなければならないものとして嫌われ、悪いこととされてきた。

時代は変わり、低成長、人口減少時代を迎え、昨年の大震災や「無縁社会」の問題化などの影響により、「縁」や「繋がり」が、これからの生活では大切であるという見直しが行われ始めた。田舎のがんじがらめの血縁に変わる、都会人=近代人の「縁」や「繋がり」など生活圏を支える小さな地域の助け合いシステムである。
門矢士のように、血縁を断ち切った近代人にとって唯一の支えとなる「仲間」を「縁」として有効的に構築することができるのかが、新時代のコミュニティの一つの目標となる。

■ リノベーションの手始めは、建物の竣工した時代”だいたい”知ること。

門矢士一行は、自動的にほかのライダーのいる世界へ平行移動させられる。そこではまず、その世界を調査し、そこで何をしたらよいのか目的をみつけ出す。そして、士はこういうのだ、「だいたいわかった」

2004年、私がリノベーションを初めて設計した時、何をしたらよいのか訳も分からず、手がかりとしてまずは建物の新築当時の社会状況を調てみた。時代に取り残された部屋=世界を目の前にした時、私は、何も考えずにすべてを解体し、ただ新しい「今」をはめ込めばよいとは思えなかった。そこで、建物の竣工当時はどのような時代で、どのような社会で、どのようなデザイン・素材・工法などが使われていたのかを調べ、「だいたい」把握し、リノベーションの手がかりとした。

■ 破壊者ではなく、融合的創造者: リ・イマジネーター

鳴滝の叫ぶ「ディケイドが世界の破壊者・・・」というお決まりのセリフは、リノベーションの世界では、まるで、古びてはいるが建設当時のままの世界をなんとか保持している部屋を、何も考えずに解体、スケルトン状態にしてしまう破壊者であるから気をつけろ、といわれているように聞こえる。

しかし、ディケイドは、それぞれの世界を単独で解体してしまうのではなく、各世界のライダーたちと協力(コラボ)し敵(?)を倒し「仲間」となる。それはまるで、古い部屋(=世界)の価値を見つけ出し、活かし、再利用し(つまり仲間になり)、新たな価値を付け加え、融合的創造に成功したリノベーションルームのようだ。
これが、「リ・イマジネーションの世界」であり意味だったのだ。いくらディケイドが最強だからといって、その世界のライダー不在に敵をたおしても、もしくは、ライダーたちをたおしてしまっても、物語としてなんのおもしろみもない。その世界のライダーの価値(=その世界の秩序)を損なうことなく、コラボレーション(=融合的創造)で敵をたおすところにおもしろみ、魅力があるのだ。

まさにモダニズムを通り過ぎたストック時代のリノベーションの世界そのもの、モダニズムを通りすぎたポスト(アフター?)モダニズムの世界とは、「リ・イマジネーションの世界」であり、融合的創造者「リ・イマジネーター」の活躍する世界だったのだ。

■ データベース化=フラット化

モダニズムにより生み出された数々の革新的デザイン。20世紀/近代では、それらは適宜評価され、デザインヒエラルキーをなんとか維持することができていた。しかし、そのあと訪れた情報過多のデータベース化時代には、それらは、整地フラット化され、時代を創ってきたデザインでさえ、一つのサンプルとして消費される素材となってしまった。

恐ろしいことに、リノベーションでは素人が趣味でデザインしたものも、インテリアデザイナーが洗練したイメージでデザインしたものも、建築家がこねくり回してデザインしたものも、同列に並べられてしまう。また,DIYで施工されたものも、職人が匠の技で施工されたものも、デザイン同様、同列に並べられてしまう。これが、データベース化時代のフラット化してしまった文化の特色なのだ。

■ 「自分の好きな服を選ぶように、自分好みのデザインの部屋に住む」ファッション化されたリノベーションルームは、陳列された服のように、住み手の嗜好により選別される。

・サンプリング、カットアップ、リミックス→ファッション化するデザイン
ディケイドが、各仮面ライダーの世界で獲得してきたことは、仮面ライダーの「サンプリング」(=データベース化)である。一度サンプリングしカード状にデータベース化してしまえば、好きな仮面ライダーを自由に取り出し、カットアップ、リミックスし活用することができる。
リノベーションのデザインも同様に、新旧、プロアマ問わず「サンプリング」してしまいさえすれば、カットアップ、リミックスにより、割と簡単にコラージュ的手法で誰もがデザインをすることができる。インテリアデザインもファッション化してしまった。

・フォームチェンジ
ディケイドがほかのライダーにフォームチェンジするとき、なぜそのライダーを選んだのかはそれほど大きな意味はないようだ。フォームチェンジ自体が目的といっていい。フラット化した整地空間は時に残酷だ。カード状にデータベース化されてしまった仮面ライダーは、素材のひとつとして、簡単に惜しみなく消費されてしまう。各世界で輝いていた主役のライダー達も、一アイテムにすぎない。夢のようなライダー達のコラボレーションが実現した場面であるにもかかわらず、次々と消費されていくライダー達を見ると、ありがたみがなくなり(価値低下)、寂しさも感じてしまうのはそのためだろう。

ファッション化したリノベーションルームも絶え間なきフォームチェンジを繰り返す時代になってしまった。いままで唯一保守的だった居住空間も、時代の大転換期をむかえ、大衆化(=ファッション化・ポップカルチャー化)されてしまった。それは、たとえ高評価の価値あるデザインだったとしても、社会の嗜好性の変化に伴い簡単にフォームチェンジされてしまう恐れが常につきまとうことを意味する。逆にいえば、リノベーションが浸透してきた現在、いかにフォームチェンジできるシステムを作り上げることができるのかがリノベーション世界の課題となっている。

・ディケイドコスチュームデザイン → 「プラスのデザイン」「マイナスのデザイン」
ディケイドコンプリートフォームでは、コスチュームに露骨に各ライダーのカードが取り付けられ、選ばれたベースとなる仮面ライダーカードが、頭部ひたいにデカデカと取り付いている。意図して採用したのはわかるのだが、まさに取ってつけたような露骨なチープデザイン。このデザインの良し悪しはそれぞれあるだろうが「品」が落ちてしまったのは間違いない。
この現象は、あとから少しだけ手を入れる場合のデザインの難しさを表している。デザインは、得てして既存部分に何かを付加するようなものになりがちだ。リノベーションでは、何かを付け加える「プラスのデザイン」と、何かを減らしていく「マイナスのデザイン」という手法がある。実は、何かを減らす「マイナスのデザイン」が空間の質を上げることも多々ある。加えるのか、減らすのか、どちらが価値を上げるのか難しい選択である。

■ 都市の中の居場所を本当に考える時代

・旅の途中
はたして、門矢士の世界は見つかったのか?
結局、「旅そのものが士の世界である」と結論づける。これは、過去をリセット(=無縁)した都市の中の近代人には、「地」と「縁」による居場所はなく、旅の途中の世界に生きるしかないことを表しているようだ。都市の中の近代人には、一生、根をはるような居場所=世界はなく、偶然出会った仲間と一緒に旅をする中で、時に助け合いながら、競争社会を生き抜いてゆくしかないのか・・・

・持ち家なのか、賃貸なのか?
自己所有による満足感、資産価値、充足感、ステイタス、というプラス面と、大震災で顕著に露呈したリスク。賃貸物件の移動の自由と、空間変更の不自由、震災等の災害面での低リスク。新築信仰者の減少、空間価値のファッション化・多様化、居住空間のリノベーションの定着、これらの現象は生活をどのように変えていくのだろうか?
人口減少、750万戸といわれる空き家数、スクラップ&ビルドの環境面からと経済面からの否定、というストック時代において大衆化(ファッション化)した居住空間。モダニズムという大提案時代を過ぎ、これからやっと近代以降の持続可能な大衆居住空間の確立作業が始まったのではないだろうか?

■ ストック時代

「人々の記憶に残る限りヒーローは何度でも蘇る」
そう、ストック時代で重要なのは、いかに記憶に残していくのか、である

ストック時代とは
1,記憶 データベース化
2,継承 意味、技術、技  伝承・維持管理
3,再構築、再創造、リ・イマジネーション

ディケイドの物語とは「ストック時代の新OS作成物語」
 
 

 
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新時代は日曜日の朝につくられていた。”平成仮面ライダー”

8月 28th, 2012

小学生・中学生時代に”平成仮面ライダー”をリアルタイムで観ていた諸君がうらやましい。果たして何を思い、何感じ観ていたのでしょうか?(どうやら小学生になると見なくなる人も多いようですね。)

■きっかけは ”リトルピープルの時代” ”冷泉荘” 現在”ユリイカ9月臨時増刊号”で研究中
私が”平成仮面ライダー”を観るようになったきっかけがこの本 ”リトルピープルの時代” で、直接作品鑑賞をするようになったきっかけは、福岡サブカルの聖地”冷泉荘”のイベント”杉内玄徳”での上映会です。その後”ユリイカ9月臨時増刊号”が発行され、現在研究中。
”クウガ”から作品を観るに従い、思いもつかなかったストーリー構成、意表をつく脚本、斬新なデザイン、実験的映像などに感嘆されっぱなしでした。知らぬまに時代はここまで進んでいたのです。なぜいままで気づかなかったのだろうかと後悔すると共に、観ずにはいられない衝動に突き動かされました。
果たしてこれらの作品を12年もの間、どうやって作り続けることができたのでしょうか?
 

 
■視点
作品を観るということは大変難しいことです。
子供の視点、親の視点、世間の視点、制作者の視点、テレビ局の視点、スポンサーの視点、プロデューサーの視点、脚本家の視点、監督の視点、役者の視点、スーツアクターの視点、評論家の視点・・・などなど、様々な視点が交錯する中で作品はつくられ、評価され、それらがフィードバック、次の作品に影響を与えています。これら複数の視点がわかってくると、さらに作品の意図が折り重なり、奥行きが増し、おもしろみが広がっていきます。
制作・放映中の社会状況、世相、国際問題等を敏感に読み取り、作り手側は所々でメッセージを織り込んでいます。時には流行りのセリフやポーズもパクったりしてリアルタイムで観るからこそ楽しめる作り方をしています。この12年間、子供向け、日曜日の朝、グッズの販売というがんじがらめに見える制約をうまく利用し、次々と新しい表現を実現していっているのは本当にすごいことだと思います。

■”ユリイカ9月臨時増刊号” (特に制作者側の人物像と、作品制作過程がわかり、おもしろい!)
わたしがもっとも知りたかったのは、”このおもしろすぎる平成ライダーシリーズを、どのような人物が、どのような手法で作り上げていったのか?” です。
”ユリイカ”9月臨時増刊号でいくつか解明しました。
まずは、主要人物。やはり、方向性・コンセプトを指し示し実現させるカリスマ的プロデューサーが存在。そして、物語化する脚本家が飛び抜けた才能の持ち主でした。(具現化・映像化作業の長である”監督”の登場がなかったのが残念)

○ プロデューサー(高寺さんと白倉伸一郎さん)二人の人物対比論がおもしろい。白倉さんあっての平成ライダーといえそうですね。時代の今を知り、未来をつくる。近代以後の革新的時代表現者。

○ そして、脚本家。井上敏樹さん、宇野常寛さん、川上弘美さんによる鼎談。
なんといっても最大の収穫が、作家/脚本家の井上敏樹さんのおもしろさ。なぜ、平成ライダーがこんなにおもしろいかと言えば、この人が書いていたからだったのだ!納得。評論家のような冷静な分析をしている人が書いていたらやだなあと思っていたが、想像を超える野人のようなかたでした。脚本家としての明確なる方向性は、転生の野生の感覚だったようです。(文章を読むと、井上さんの言葉はまるでセリフのようで、宇野さんと川上さんが論理的に話される言葉とのギャップがすばらしい!)
もう一人の脚本家、小林靖子さんの制作過程もおもしろい。この脚本家二人の作品は見逃せません。

○ 芸能史の矢内賢二さんの、浄瑠璃や歌舞伎にある「世界」「趣向」という言葉による分析は、文化の発展過程の伝統的手法と同様な構図が平成仮面ライダーにみてとれることを示した興味深い指摘でした。昔の人も、平成の今も、物語の作り方はそれほど変わっていないのかもしれませんね。

○ ただ、デザインに関する内容が全くないのが残念。(スポンサー側もなし)
売ることを宿命づけられたベルトと付属武器、そして、バイク、仮面ライダーのデザイン、やられる度に毎回デザインを変えなければならない敵(なのか?)のデザインなど、12年の変遷は大変おもしろいのだが・・・

■小学生・中学生時代、ただ単に視聴者として楽しんで観てきたみなさん、これらの本を読んだ後で見返してみると、全く異なった視点を獲得することができます。この平成仮面ライダーを、作り手側の視点、スポンサーの視点、評論家の視点など複眼的に観てみてはいかがでしょう。この視点は他の分野、他の作品にも応用が利きます。作品づくりにも役立つでしょう。

来週から”仮面ライダーウィザード”放送開始。
 
 
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